短編|競売と明渡しをめぐる法律記事のスピンオフ フィクション(前記事はこちら)
一
── 取調室・一日目
では宮原さん、もう一度、最初からお願いします。
何度も話しましたが。
何度でも結構です。日付から。
あなたは机の木目を見ている。安い合板で、角が欠けている。こんなものを見ていると落ち着く、と気づいて、それがどういう意味なのかは考えないことにする。
日付なら、言える。日付はずっと覚えている。

二
五月。開札の紙を受け取ったとき、あなたは少し笑った。
二千八百万。評価額よりずいぶん安い。築三十年の木造二階建て、駅から十二分。三点セットは読んだ。現況調査報告書の占有者欄には前所有者の名前があって、執行官の所見には「訪問したが応答なし。郵便物の滞留あり」とあった。
空き家だ、とあなたは読んだ。
そう読みたかった、とは今なら言える。当時はそう読めた。人はたいてい、そのときいちばん都合のいい読み方を、ごく自然な読み方だと感じる。
会社の資金繰りは、その春、限界に近かった。内装工事の下請けで、元請けの支払いサイトが延びて、あなたは三か月先の支払いのために二か月先の入金を当てにする暮らしをしていた。この物件を直して貸せば、月に十二万入る。十二万あれば回る。
そう計算した紙は、今も鞄の底にあるはずだ。二千八百万は、事業の融資枠を使い切って作った。手元には、もう何も残っていなかった。
三
藤村さんの存在を知ったのは、いつですか。
六月。代金を納めた、三日後です。
日にちは。
六月十七日。
ずいぶんはっきり覚えていますね。
覚えている。その日から数えていたからだ。

四
玄関の錠は回らなかった。鍵屋を待たせたまま裏に回ると、勝手口が開いていた。
台所に、カセットコンロがあった。ボンベが三本、揃えて置いてあった。流しに茶碗がひとつ、伏せてあった。
奥の和室で、男が起き上がった。
白髪の混じった、痩せた男だった。あなたを見て、驚いた顔をしなかった。それが一番こたえた。いつかこういう日が来ると知っていて、来たな、という顔だった。
「持ち主の方ですか」
男はそう言った。あなたは、はい、と答えた。
「藤村といいます」
男は正座をして、それきり何も言わなかった。謝らなかったし、言い訳もしなかった。あなたは何を言えばいいのか分からず、しばらく立っていた。窓の外で、鍵屋がたばこを吸っていた。
「出ていってもらえますか」
「行くところがありません」
会話はそれだけだった。あなたは家を出て、鍵屋に金を払って帰した。帰りの車の中で、手が震えていた。怒りだと思った。
五
── 参考人・弁護士 岩瀬 聡
六月の下旬に、相談にいらっしゃいました。競売で落とした物件に占有者がいると。前の所有者ではなく、権原のない第三者でした。
どう助言されましたか。
引渡命令の申立てを、すぐにするようにと。代金納付から六か月という期限があります。それを過ぎると通常の訴訟になって、期間も費用も跳ね上がる。そのことは、その日に、書いてお渡ししました。
宮原さんの反応は。
費用を聞かれました。
六
岩瀬という弁護士は、五十くらいの、話の早い男だった。あなたが座るなり紙を一枚出して、数字を書いていった。
引渡命令の申立て、数千円。執行官への予納金、六万円ちょっと。執行補助者の費用、二十万から、荷物が多ければ六十万。鍵交換、二万。弁護士費用は別。
「それは、誰が払うんですか」
「法律上は占有者の負担です。ただ、手続き上は宮原さんが全額立て替えないと、執行が始まりません」
「回収は」
「藤村さんに財産があれば」
岩瀬はそこで少し黙った。あなたが黙ったからだ。
「正直に申し上げると、まず戻りません。ただ、放っておくともっと高くつきます。六か月です。ここだけは守ってください」
あなたは紙を折って、内ポケットに入れた。その紙は今、証拠になっている。折り目に沿って黄ばんでいるのを、あなたは机の上で見せられた。
その日の夜、元請けから電話があって、七月の支払いがさらに一か月ずれると言われた。
七
期限は、いつ切れましたか。
十二月十四日です。
それも覚えているんですね。
はい。
期限までの六か月、何をしていましたか。
……仕事です。
物件については。
何も。

八
何もしなかった、というのは正確ではない。あなたは毎日、それについて考えていた。
八月、あなたは藤村に手紙を書いた。内容証明ではなく、普通の封筒で。退去してほしいこと、こちらも困っていること。返事はなかった。
九月、岩瀬から電話があった。あと三か月です、申立てだけなら数千円です、と言われた。あなたは、もう少し考えます、と答えた。考えることなど何もなかった。書類を一枚出せば、その先の四十万まで決めてしまう気がした。四十万をどこから出すかという問題があるだけで、それは考えて解決する種類の問題ではなかった。
十月、現場で足場から落ちた職人がいて、その対応で二週間が消えた。
十一月、あなたは一度だけ物件の前まで行った。車から降りなかった。二階の窓に明かりがついていた。オレンジ色の、弱い光だった。
十二月十四日は、水曜日だった。あなたはその日、川崎の現場にいた。夕方、携帯を見て、日付を確かめて、ポケットに戻した。それだけだ。
あとになって人は言う。なぜあの時点で動かなかったのかと。
動かなかったのではない。あなたにとってそれは、選ばなかった日ですらなかった。ただ、通り過ぎた日だった。何かを決めるということは、決めるだけの余白がある人間にだけ許される。あなたの十二月には余白がなかった。
九
── 取調室・三日目
これを見てください。
……
十二月二十五日、午前十時四十二分。ホームセンター向ヶ丘店。構造用合板九枚、木ねじ、コーススレッド。合計一万六千八百円。ポイントカードの番号は、宮原さんのものです。
はい。
何に使いましたか。
物件の、防犯です。
防犯。
空き家になっていたので。誰か入るといけないと思って。
空き家。
あなたはそこで、初めて言葉に詰まる。
十
十二月二十五日は、寒い日だった。
あなたは軽トラで行った。合板を九枚、荷台に積んで。インパクトドライバーは自分の商売道具だった。
どこから塞いだかは、覚えていない。最後が玄関だったことだけ覚えている。
作業は一時間で終わった。内装工を十八年やってきた手が、迷いなく動いた。ねじの間隔まで、いつもの癖のとおりだった。
その一時間、あなたが自分に言っていたことを、あなたは正確に再現できる。
──もういないだろう。
──十一月に明かりが見えたのは、あれはたぶん、外の街灯の反射だ。
──冬になれば、あの年齢で暖房もなしにいられるわけがない。どこかの施設に行ったはずだ。
──自分は空き家を守っているだけだ。
これは嘘ではなかった。あなたは自分に嘘をついたのではない。信じたのだ。信じるほうが、一時間の作業がずっと楽になったから。人間の脳は、手が動いているあいだ、その手を止めない理屈をいくらでも用意する。
ただ一つ。
最後の一枚を玄関に打ちつける前、あなたは扉に手を当てた。
そして、耳を近づけた。
なぜそうしたのかは、あなたにも説明できない。中に誰もいないと信じているなら、耳を近づける必要はない。

十一
── 参考人・NPO法人「はしわたし」 桑野 弥生
藤村さんとは、三年前からのお付き合いです。月に一度、お弁当をお持ちしていました。
記録はありますか。
ノートがあります。訪問のたびに書いていましたので。
読み上げてください。
……十月十九日、在宅。体調変わりなし。十一月二十一日、応答なし。不在と判断。十二月二十六日、玄関と勝手口に板が打ちつけられている。呼びかけたが応答なし。
続けてください。
一月二十三日、板そのまま。応答なし。二月二十日、板そのまま。二月二十二日、区役所に相談。所有者に連絡してみる、と言われました。三月一日、警察署に相談。三月二十日、板そのまま。
警察では、何と。
……所有者の許可なく建物に立ち入ることはできない、と。所有権のある方が防犯のために板を張ることは、それ自体では犯罪にならない。中に人がいるという確証がなければ動けない、と言われました。
確証は、なかったわけですね。
ありませんでした。
私は、ノートに書いていただけです。三回、書きました。板そのまま、と。
十二
一月、あなたは物件の前を三度通った。
仕事の行き帰りにわざわざ遠回りをして、速度を落として、通り過ぎた。降りなかった。板は打ったとおりにあった。
二月、一度、車を停めた。
五分ほど、運転席から見ていた。それから、エンジンを切った。降りて、門の前まで行った。
そこで引き返した。
引き返した理由を、あなたは今も言葉にできない。確かめたら困るから、ではなかったと思いたい。何を確かめるというのだ。中には誰もいないのだから。誰もいないものを確かめに行くのは、おかしいではないか。
おかしい、とあなたは思った。だから帰った。
その夜、あなたは久しぶりによく眠った。
十三
電気の契約についてうかがいます。あの建物の電気は、宮原さん名義でしたね。
前所有者の解約後、自分の名義にしました。工事に使うつもりだったので。
使用量の記録があります。六月から十二月まで、毎月十五キロワットアワー前後。一月から、記録上はゼロです。
……
メーターは三十分ごとに記録しています。十二月二十五日の午後を最後に、使われていません。宮原さんは三月まで基本料金を払い続けて、四月に口座振替を止めています。
資金繰りです。使っていないものに払う意味がなかった。
使っていない、と分かっていたんですね。
あなたは答えない。
刑事は紙を一枚めくって、何も言わずに待っている。待つのがうまい人だ、とあなたは思う。
十四
四月。あなたは供給元に電話をして、口座振替を止めた。
電話を切ったあと、あなたはしばらく机に座っていた。
何かがそこで、変わったのを感じた。それまでは、まだ戻れる場所にいた気がしていた。板を外せばいい。外して、岩瀬に電話して、訴訟にすればいい。四十万は、借りればいい。誰かに頭を下げれば、たぶん、どうにかなる金額だった。
電話を切った瞬間、その道が閉じた。
なぜ閉じたのか、論理的な理由はない。手続き上は何も変わっていない。ただ、あなたの中で、何かが「もう仕方のないこと」の側に移った。
人が引き返せなくなるのは、大きな決断をした時ではない。小さな手続きを一つ、事務的に済ませた時だ。
十五
── 参考人・近隣住民 大谷 節子
六月の、蒸し暑い日でした。窓を開けていられなくて。
それまでは。
五月の連休のころから、何か変だとは思っていました。生ゴミのような。でも夏前ですし、どこかの家の話だろうと。
通報されたのは。
六月八日です。町内会の方と一緒に。
十六
六月八日、午後三時十二分。あなたの携帯が鳴った。
知らない番号だった。出ると、警察署の名前を名乗られた。
「宮原さんの所有されている建物のことで、確認したいことがあります」
あなたはそのとき、現場の事務所にいた。窓の外で、若い職人が脚立を畳んでいた。
あなたは自分の声を聞いた。落ち着いた、普通の声だった。
「空き家にしている物件ですが、何かありましたか」
言い終わってから、あなたは、それが今日から先ずっと自分を縛る一文になることを知った。
空き家にしている。
その一言を、あなたはこれから何百回も読み返されることになる。調書で、証人尋問で、論告で。半年前に自分が自分に言い聞かせた言葉が、そっくりそのまま、あなたを立証する側に回る。
自分に言い訳をするために作った物語は、他人の手に渡ったとき、そのまま証拠になる。
十七
── 取調室・七日目
藤村さんが和室で見つかって、今日で七日です。
最後に、一つだけ。
……はい。
板を打ってから六月八日まで、五か月半あります。その間、宮原さんは物件の前を何度も通っていますね。二月には車を停めて、門まで行っている。コインパーキングの記録と、自販機のカメラに残っています。あの自販機は、半年ぶん保存する機種でした。
はい。
では、うかがいます。
なぜ、一度も中を確認しなかったんですか。
あなたは口を開く。
閉じる。
また開く。
この質問に答えられないことを、あなたはずっと前から知っていた。十二月二十五日の、あの一時間から知っていた。
確認しなかったのではない。
確認しないようにしていたのだ。
そしてその二つの違いを説明できる言葉を、日本語は持っている。持ってしまっている。あなたが十八年かけて覚えた言葉の中に、その語はなかった。けれど法律の中にはあって、それは今、あなたの名前の横に書かれている。

十八
本当は、一度だけ確認した。
誰にも話していない。ノートにも、カメラにも、記録のどこにも残っていない。
三月の終わり、夜。あなたは車を三本先の道に停めて、歩いて行った。
裏に回って、勝手口の板に手を当てた。合板は、冬のあいだに少し反っていた。自分で打ったねじの位置を、指でたどった。
そして、耳を近づけた。
十二月二十五日と、同じように。
あのときは、何も聞こえなかった。だから打った。
三月の夜も、何も聞こえなかった。
あなたは十秒ほどそうしていて、それから手を離して、来た道を戻った。
帰り道、あなたは一度も振り返らなかった。振り返らなかったことを、あなたは今でも、はっきり覚えている。

十九
宮原さん。
聞こえていますか。
机の木目を見ている。安い合板だ。角が欠けている。
こういう板を、あなたは何千枚も切ってきた。
この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件とは関係ありません。
作中の手続き・期限・費用については、前記事「鍵を開けたら、人が住んでいた ── 競売物件と不法占拠の法律」で扱った内容に基づいています。
付録|この話の時間と、証拠
物語の中では現在と過去が交互に出てくるので、時間の流れと、外側で積み上がっていった記録を1枚にまとめておく。制度の話(引渡命令の6か月、費用、警察が動く範囲)は前記事で扱っている。
| 人物 | 立場 | 物語での役割 |
|---|---|---|
| 宮原 | 買受人。内装工事の下請けを18年 | 「あなた」。競売で建物を落札し、占有者を放置し、期限の十一日後に封鎖する |
| 藤村 | 占有者。白髪の混じった痩せた男 | 行くところがない、とだけ言う。NPOと3年の付き合い |
| 岩瀬 聡 | 弁護士 | 六か月の期限と費用を紙に書いて渡す。9月に「あと三か月」と電話 |
| 桑野 弥生 | NPO法人「はしわたし」 | 月1回の弁当配達。ノートに「板そのまま」と3回書き、区役所と警察に相談する |
| 大谷 節子 | 近隣住民 | 5月の連休に異臭に気づき、6月8日に町内会と通報 |
| 刑事 | 取調官 | 待つのがうまい人 |
| 記録 | 持っていた人 | 章 | 前記事の対応箇所 |
|---|---|---|---|
| 弁護士が渡した費用と期限の紙(折り目が黄ばんでいる) | 宮原の内ポケット | 六 | 第4幕 6か月の崖/表3 費用の目安 |
| ホームセンターのレシートとポイントカード(12/25 10:42、合板9枚) | 店の販売記録 | 九 | ── |
| NPOの訪問ノート(10/19在宅→11/21応答なし→12/26板→「板そのまま」×3) | 桑野 | 十一 | 第7幕 警察は動くのか(民事不介入) |
| 電気の使用量(毎月15kWh前後→1月からゼロ)と、4月の支払い停止 | 電力会社・宮原名義 | 十三・十四 | 表2 インフラ供給が絶たれた場合の評価軸 |
| 近隣の異臭通報(5月連休〜6/8) | 大谷 | 十五 | ── |
| 「空き家にしている物件ですが」という本人の第一声 | 警察の記録 | 十六 | ── |
| コインパーキングの記録と自販機のカメラ(2月、門まで行った日) | 駐車場・自販機の運営会社 | 十七 | ── |
| 誰の記録にも残っていない、3月末の夜 | 宮原だけ | 十八 | ── |






